昭和文学会

研究集会・大会

昭和文学会第45回研究集会

  • 日時 2009年12月12日(土) 午後1時30分より
  • 会場 國學院大學 渋谷キャンパス 二号館三階(二三〇二教室)

  • *昭和文学会会員以外の方でも、無料・申込不要にて参加できます。
  • 研究発表(司会 黒岩 裕市・ 西山 一樹)

  • 徳永直の創作方法の転換とその狭間――「島原女」と「女の産地」の語りの変化について
    和田 崇


    張赫宙「脅迫」論
    梁 姫 淑

    大江健三郎「人生の親戚」論――異同の提起する問題
    伊藤 久美子

    花田清輝の弁証法から〈文化政治学〉の読解へ
    菅本 康之
  • 懇親会

  • ※ 研究集会終了後、学内(AMCセンター一階、カフェラウンジ若木ヶ丘)にて懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。

報告要旨

徳永直の創作方法の転換とその狭間――「島原女」と「女の産地」の語りの変化について

和田 崇

徳永直の「島原女」(『新潮』一九三三・九)は、長崎の島原半島で海外へ売られる娘たち、いわゆる〈からゆきさん〉を主題とした短篇小説である。この作品では、漁師部落の貧困など、〈島原女〉が産出される背景が見落とすことなく描かれている。また、二年後に徳永は、同じく〈からゆきさん〉を主題とした「女の産地」(『中央公論』一九三五・九)を発表しており、前者では〈おしま〉という女性主人公を中心に、後者では徳永の投影と思われる男性主人公を中心に物語が展開するという、語りの変化が見られる。〈からゆきさん〉は、対外進出の一端を担いながらも〈国辱〉とされ、男性的な語りや表象によってその主体性を排除されてきた。同じようにプロレタリア文学においても、知識人主導の創作理論によって、労働者が観念的に表象される問題が生じていた。本発表ではこの二作品の語りの変化に着目することにより、創作方法転換の狭間で異彩を放つ「島原女」の意義を検討し、プロレタリア文学における対象の描き方の問題に迫りたい。

(立命館大学大学院生)


このページのトップに戻る ▲

張赫宙「脅迫」論

梁 姫 淑

今はほとんど忘れられているようだが、植民地時代の朝鮮出身の作家のなかで、日本でとりわけ知られていたのが、張赫宙(一九〇五―一九九七)であった。朝鮮農民の悲惨な状況を描いた「餓鬼道」(一九三二)で日本文壇にデビューした張は、一九三九年頃からいわゆる「親日」的な作品に傾斜し、敗戦後に日本に帰化(一九五二)して、野口稔(筆名 : 野口赫宙)になった。
 「脅迫」(『新潮』一九五三・三)は、敗戦直後から帰化までの経緯を書いた自伝的短編である。
 本発表では、「脅迫」の内容と実際の作者の歩みとの照応を検証し、さらに主人公「私」と作者の自己認識の過程を重ね見ることを通じて、その現実的な不安が、より深い実存的な不安に変わっていった過程を考察する。加えて、その過程の果てに得られた「民族」「国家」の壁を乗り越えたいという願望が、「脅迫」執筆前後の時期における作者の仕事に、どのように反映していたかということも考えてみたい。

(埼玉大学大学院生)

このページのトップに戻る ▲


大江健三郎「人生の親戚」論――異同の提起する問題

伊藤 久美子

初出「人生の親戚」は、一九八九年一月特大号の『新潮』に一挙掲載されると、すぐさま主人公の女性像が関心を呼び、高評を得た。だが、直後の三月、初出「人生の親戚」の物語世界に変換をせまる「マッチョの日系人」が、『文學界(芥川賞一〇〇回記念特別号)』に発表された。しかし、管見では、この短編に対する考察はなされていない。また、一九八九年四月に新潮社から刊行された「人生の親戚」の巻末には、初出の一〜一一章に続く形で、「マッチョの日系人」を改題した「後記にかえて」を組み入れたかのような記載がある。けれども、初出の一〜一一章と単行本の一〜一一章を比較すると看過できない異同が認められ、短編と「後記にかえて」の間にも大胆な手直しが施されている。
 そこで、初出から単行本への異同を詳らかにした上で、作者と語り手の距離を計り直し、作品の根幹に触れる問題を提起し、従来の主人公論・語り手論の枠組みを越える新たな解釈に及びたい。

(聖ドミニコ学園中学高等学校/昭和女子大学大学院科目等履修生)


このページのトップに戻る ▲

花田清輝の弁証法から〈文化政治学〉の読解へ

菅本 康之

二〇〇九年は、花田清輝の生誕一〇〇年にあたる。今回の発表は、今後花田が正当に評価・研究されていくためのものにしたいが、文化(芸術)と資本主義をめぐる花田の多様なアプローチのいずれの議論にも関わる焦点として「弁証法」の問題がある。花田の「弁証法」は、すでに渡邊史郎が指摘しているように、その生成においてシュルレアリスムの影響があり、いわば花田清輝は、シュルレアリストとして出発し、マルクス主義者となりながらも、マルクス主義の「教条的弁証法」とは、異なる「弁証法」を生み出したのである。「ものはつねに何らかの仕方でAでもあり、非Aでもある」ことを前提とする花田の「弁証法」は、非Aが「無意識」、こういってもよければ「歴史的な無意識」であり、その覚醒によって「歴史」や「文化」が想起されるのであるとすれば、〈文化政治学〉読解のパースペクティブは拡大するだろう。そのことを、発表では極力テクストに即しながらあきらかにする。

(藤女子大学)

このページのトップに戻る ▲

第44回 昭和文学会 研究集会

  • 日時 2009年5月9日(土) 午後1時30分より
  • 会場 二松学舎大学 九段キャンパス (401教室)

  • あまんきみこさんに聞く 書いてきたこと、書いてきた道
    (聞き手 宮川健郎)

  • 研究発表(司会 大原祐治)

  • サブカルチャーから教育へ―― 金子みすゞ受容の変遷 ――
    藤本 恵


    あまんきみこと戦争児童文学――「ちいちゃんのかげおくり」を中心に ――
    木村 功

  • 懇親会

  • ※ 懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。

[二松学舎大学へのアクセス]
(別ウインドウで二松学舎大学へのサイトへリンクします)

このページのトップに戻る ▲


発表要旨

サブカルチャーから教育へ―― 金子みすゞ受容の変遷 ――

藤本 恵

金子みすゞの童謡詩人としての活動期間は大正一二年から昭和三年頃までで、ごく短い。しかし、断続的に紡がれるみすゞの童謡や人柄のイメージは、現在まで続くスパンと変化を持つ。まず、自殺の翌年から、西條八十がエッセイ「下関の一夜」(「ロウ人形」昭六・九)や「下関の女」(「少女倶楽部」昭一〇・九)で、「薄幸」の女性詩人としてみすゞを紹介する。その後、八十以外にもみすゞを語った人物はいるが、長年の調査の末に全集を編み、生涯を明らかにした矢崎節夫の登場後、主要なイメージは「やさしい」へ変化した。平成八年には、「私と小鳥と鈴と」等が小学校国語教科書に採られ、「みんなちがつて、みんないい」という詩句とともに、良くも悪くも現代的なイメージが定着していく。これは、童謡というジャンルの変化に対応しているようにも見える。本発表では、みすゞイメージの転換を追い、あわせて、童謡ブームの大正末期、子どもよりむしろ若者に生産、消費される新しい文化であった童謡が、教育と関わりつつ受容される現在に至る過程を検証したい。
 ※「ロウ」は環境依存文字によりカタカナにしてあります。

(都留文科大学)


このページのトップに戻る ▲

あまんきみこと戦争児童文学――「ちいちゃんのかげおくり」を中心に ――

木村 功

 あまんきみこの「ちいちゃんのかげおくり」(一九八二、あかね書房)は、戦争を扱った児童文学として認知される一方、初等国語科教科書(光村・小三)に採録されている戦争文学教材でもある。
 戦争児童文学と戦争教材は、もちろん同義ではない。後者は、教室の中で展開される国語教育の中で、一人から多人数の中で育まれる児童たちの「読み」を生成する媒材として位置づけられるものである。一方児童文学作品として見た場合のあまん作品は、過去の戦争体験を伝えるものから、虚構の中で戦争を書くという、戦争児童文学の流れ(宮川健郎)の端境期に位置づけられるだろう。
 研究発表では、「ちいちゃんのかげおくり」と表裏をなす「おはじきの木」(一九七六)という作品にも言及しつつ、あまん作品が戦争というテーマをどのように表現し、どのような作品世界を構築しているのか、またその意義について明らかにしたい。

(岡山大学大学院)

このページのトップに戻る ▲


講演者紹介

あまんきみこ

昭和六(一九三一)年、旧満州・撫順の生まれ。満鉄社員だった父の転勤にともない、新京をへて、大連で育つ。敗戦後、昭和二二年に日本に引き揚げ、大阪で暮らす。日本女子大学(通信制)卒業。童謡詩人で童話作家の与田凖一に出会い、書きはじめる。昭和四三年、日常が不意に別の顔を見せる瞬間を描いた連作短篇集『車のいろは空のいろ』(日本児童文学者協会新人賞)でデビュー。「近代童話」の詩的性格を廃し、散文化をすすめていた「現代児童文学」に新生面をひらく。『北風をみた子』『おっこちゃんとタンタンうさぎ』(野間児童文芸賞)『だあれもいない?』(ひろすけ童話賞)、絵本『おにたのぼうし』『ちいちゃんのかげおくり』(小学館文学賞)『きつねのかみさま』など作品多数。今年の秋ごろ、『あまんきみこセレクション』全五巻(三省堂)が刊行される予定。現在、京都府長岡京市在住。

研究集会・大会

2009年度 昭和文学会 春季大会

  • 日時 2009年6月20日(土) 午後1時30分より
  • 会場 跡見学園女子大学文京キャンパス 2号館5階M2505教室

  • *昭和文学会会員以外の方でも、無料・申込不要にて参加できます。

    特集「文学館の〈いま〉を考える」

  • 開会の辞
    跡見学園女子大学 山崎 一穎

  • 講演
  • 新しい文学館像に向けて
    神奈川近代文学館館長 紀田 順一郎

  • 報告(司会 栗原 敦・山本 亮介)

  • 個人作家の文学館から
    三島由紀夫文学館館長 松本   徹


    日本近代文学館の現状と課題
    日本近代文学館事務局長 伊藤  義男


    大阪国際児童文学館廃館にまつわる諸問題
    大阪府立国際児童文学館館長 向川  幹雄

  • 懇親会

  • ※ 懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。

[跡見学園女子大学文京キャンパス]
(別ウインドウで跡見学園女子大学へのサイトへリンクします)

このページのトップに戻る ▲


報告要旨

個人作家の文学館から

松本 徹

 美術なら美術館、音楽なら音楽ホール、演劇なら劇場といった、社会に開かれた施設が不可欠である。しかし、文学の場合は、本を開く空間があれば足りるといってもよかろう。このため、社会のなかに目に見える形で存在を主張し、公共性のある施設を持つことに、他の芸術とは違う困難がつきまとう。そうしたなかでわずかに持ち得ているのが文学館である。ただし、表現活動の中枢ではなく、資料保存、研究、啓蒙、作家の顕彰などの面にとどまる。そうしたこともあって、経済的余裕がなくなると、真っ先に皺寄せが来るようである。しかし、文学活動を現在ではなく継続なり歴史の層から見ようとするとき、施設の重要性は高くなる。  これまで徳田秋聲記念館(金沢市)、野口冨士男文庫(越谷市図書館)、三島由紀夫文学館(山中湖村)に係わってきたが、それら個人作家の文学館の現状を報告するとともに、そこで考えさせられたことの一端を話そうと思っている。

(三島由紀夫文学館館長)


このページのトップに戻る ▲

日本近代文学館の現状と課題

伊藤 義男

 日本近代文学館は、震災や戦災などにより散逸し失われて行く資料を収集・保存し公開できる施設を作ろうという機運の中で設立活動が始まり、文壇・学界・マスコミ界あげての賛同によって一九六三年に財団法人として発足、一九六七年に日本初の近代文学総合資料館として開館しました。当時文学館的な施設は馬籠の藤村記念館など数えるほどでしたが、ここ四半世紀で自治体が競うようにつくるなど数多くの文学館が設立され、規模の大小などはありますが、全国の文学館・文学者の記念館の数は五〇〇を超えるほどになりました。しかし、景気の低迷、財政難などでどこも運営状況は厳しいようです。当館も開館当初は建物ができても到底維持はできまいと懸念されましたが、その後も国や自治体の援助を受けずに、民間の一法人として独力で維持運営しており、一時期を除き厳しい財政状況が続いています。そのような当館の歴史と現状、当面する課題などについてご報告いたします。

(日本近代文学館事務局長)

このページのトップに戻る ▲


大阪国際児童文学館廃館にまつわる諸問題(発表メモとして)

向川 幹雄

★府議会、廃館を決議…二〇〇九年三月の議会で、館条例を廃案とし、館を平成二一年度内に廃止、資料は府立中央図書館へ移転、を決議。付帯決議に @引き続き資料を収集、活用する A機能を引き継ぐ、があります。それに伴い、必然的に財団への府出資金は引き上げ、館プロパー職員はクビ、図書館職員で運営することになります。★どのような館を目指したか…@児童向き図書・雑誌、研究資料、新聞記事、読書運動パンフレットなどの児童文学関連資料の全てを集め、永久に保存する A内容を分析し情報を機関・個人に公開する、の二点を目標とし、運営は半官半民によるものとしました。★二四年間の事業展開…児童文学を専攻した専門員と司書、および府派遣事務職員、非常勤職員が事業を担当。十二万点の資料は現在七〇万点に増加、出版された形で保存し、細目やキーワード、内容紹介などをつけて情報を発信。★府があげる廃館理由…指定管理者制度の導入による数的評価、少ない入館者数が問題。橋下知事の文化・医療の切り捨て政策のもと、あがらぬ経済効果→組織が問題。★館の対応策…府出資二億円を一億円に減額する案、入館者数五万人を十万人に増やす努力案を提示。府議会・マスコミへの働きかけ、育てる会を中心にした民間の存続運動。★しかし、廃館を決議 ★私たちは今後、何をするか…将来の再生に備える、そのために資料の保全に努める。現地存続の道を探る:国への移管模索、新しいスポンサー探し、寄贈本返還訴訟。地方に特色ある文化施設を作る必要を世間に訴え、国の補助を訴える。●文化施設に指定管理者制度、経済効果、入館者数、民間運営はそぐわない。●研究資料館機能を前面に出す必要があったのではないか。

(大阪府立国際児童文学館館長)

このページのトップに戻る ▲

研究集会・大会

2009年度 昭和文学会 秋季大会

  • 日時 2009年11月14日(土) 午後1時30分より
  • 会場 花園大学 無聖館五階 無聖館ホール

  • *昭和文学会会員以外の方でも、無料・申込不要にて参加できます。

    特集「文学と音楽の昭和」

  • 開会の辞
    花園大学 浅子 逸男

  • 研究発表(司会 庄司達也・羽矢みずき)

  • 音楽への憧憬――中原中也の場合
    加藤邦彦


    虚構的「日系人」のエキゾティシズム――一九七〇年代中期の細野晴臣とアメリカ
    広瀬正浩

    言葉と音の断層から――坂口安吾と「エリック・サティ」をめぐる文学的風景
    大原祐治
  • 講演

  • 文学者のための昭和音楽史
    細川 周平

  • 閉会の辞
    代表幹事 傳馬 義澄

  • 懇親会

  • ※ 懇親会を予定しておりますので、皆様ふるってご参加下さい。

報告要旨

音楽への憧憬――中原中也の場合

加藤 邦彦

ヴェルレーヌの「何よりもまず音楽を」というよく知られた一節を持ち出すまでもなく、詩はほとんど常に音楽を憧憬している。そして、そのヴェルレーヌから強い影響を受けている中原中也もまた、音楽に対して憧れを抱き続けた詩人のひとりであった。その憧憬のためか、中原の音楽に対する態度を概観すると、どことなく卑屈にみえる。中原は自分の詩に作曲してくれとみずから作曲家たちに歩み寄り、曲のためにその詩に手を加えることも厭わなかった。しかし、この音楽に対する詩人の卑屈な態度は、何も中原に限ったことではないのかもしれない。念のため断っておくと、わたしはここでいわゆる「詩の音楽性」を問題にしたいのではない。わたしが考えたいのは、詩(人)と音楽(家)の力関係である。また、中原の抱いていた音楽への憧憬は、中原の詩観とも少なからず関わりがあると思われる。そのことについて、例の「名辞以前」や実作などに触れながら考えてみたい。

(梅光学院大学)


このページのトップに戻る ▲

虚構的「日系人」のエキゾティシズム――一九七〇年代中期の細野晴臣とアメリカ

広瀬 正浩

 戦後の日本の大衆文化の形成に最も大きな影響を及ぼしたのは、「占領者」の文化としてのアメリカ文化である。アメリカは戦後の日本人にとって超越的な位置にあったが、そのようなアメリカとどのような距離を取るかという問題が、日本の文化の実践者たちに課せられていた。本発表は、一九七〇年代から今日にかけて、日本のポピュラー音楽の中心的な人物である細野晴臣のアメリカに対する態度について考えるものである。特に注目したいのは、一九七〇年代の中期に細野が「ハリー細野」という呼称を用いていた点だ。細野はこの呼称を通じて、「日系人」としての記号性を自らに付託するのだが、少なくとも細野の経歴を見る限り、彼を「日系人」と呼ぶに足る移動の経験を細野自身は過去に持っていない。その意味で細野は、「ハリー細野」という呼称を通じて、虚構としての「日系人」を生きたのである。こうした細野の態度の政治性を、歴史的な状況の中で理解したい。

(東海高等学校)

このページのトップに戻る ▲


言葉と音の断層から――坂口安吾と「エリック・サティ」をめぐる文学的風景

大原 祐治

初期の坂口安吾が詳細な註を付したエリック・サティ論の翻訳を試み、エッセイ「FARCEに就て」(一九三一)でも音楽について言及していたことは知られているが、安吾と音楽との関係について、これまで本格的な検討はなされていない。しかし、安吾が中心人物の一人として関わった同人誌「言葉」・「青い馬」が、前衛作曲家・伊藤昇らを執筆者に迎え、文芸雑誌としては異例とも思われる分量の音楽論を掲載するような誌面を構成していたことからは、安吾の音楽それ自体への強い関心がうかがえる。実際、同じくサティに関心を示したモダニスト詩人/編集者・北園克衛は、安吾の訳業とその掲載誌に関心を示し、両者の間には、ごく短期間ながら何らかの共鳴が生じていた。しかし、生涯モダニストであり続けた北園と異なり、その後、安吾の文章からは音楽に関する言及が消える。安吾におけるモダニズムとの訣別とは何か。このことは、若き日に対する「墓」だと自ら位置づける長篇『吹雪物語』(一九三八)の中に痕跡として刻まれているのではないだろうか。

(千葉大学)

講演者紹介

細川 周平

 一九五五年大阪市生まれ。国際日本文化研究センター教授。近代日本音楽史、日系ブラジル文化史。主な著書に『サンバの国に演歌は流れる』(一九九五年、中公新書)、『シネマ屋、ブラジルを行く』(一九九九年、新潮選書)、『遠きにありてつくるもの』(二〇〇八年、みすず書房、読売文学賞受賞)。『ミュージック・マガジン』(一九八九年四月号〜一九九四年三月号)に「西洋音楽の日本化・大衆化」と題して、幕末から終戦までの大衆音楽史をまとめ、現在はその単行本化を目指して、増補改訂を行っている。

昭和文学会 秋季大会

このページのトップに戻る ▲